〈幻草文庫。セレクション〉「風方剣文録」―第六章 救出―

2020年2月4日火曜日

過去作 長編

t f B! P L

 その夜は、とてつもなく暗かった。黒い空に浮かんでいるであろう月は、暗雲に覆われ星も見えない。そんな空を険しい表情で浮かべる影が一つ。フレデリック、その人であった。その険しい瞳の裏側には、おそらくアテナしか映っていないことであろう。それほどまでも、彼にとってアテナという存在は大きい。
 思えば、ずっと側にいた気がする。アテナが城へ勤め始めて間もなく、フレデリックは王から命が下されアテナの側にずっといた。王が自分になぜ、このような任務を任せたのか。最初は知らなかったが王やアテナと共に過ごす時間が長くなってゆくうちに少しずつ理解していった。王がアテナを気にかける理由、それからカラーチェンジガーネットの瞳。根拠はそれだけで十分すぎるほど、揃った。そして、アテナが城に勤め始めて1年経ったある日。フレデリックは、王に呼び出されアテナを気にかける理由を洗いざらい話してくれた。それに納得すると共に、ふつふつと心の中に芽生えたのは忠誠心と守りたいと心の底から思う心。命令などではない、心からアテナを守りたいという思いは側にいるうちにそれはそれはとても大きく育っていった。理由も根拠も理屈も約束も何もない。ただ、側にいただけでこんなにも一人の女性に心酔したのは初めてであった。
 果たして、かつていた恋人にすらこんな思いは抱かなかったというのに。それは、友情なのか愛着なのか愛情なのか、本人すらも分かってはいなかった。

「………恋人、か」

 かつての恋人を思い出す。それはそれは見目麗しく、その無邪気な笑みは守ってあげたくなる衝動に駆られるほどに彼女は、とても美しくも可愛らしい女性であった。しかし、それは周りが言うばかりで自分はそう思ったことはない。周りの騎士どもはその女に骨抜きにされていた。そんな様子をいつも遠目で、それもめんどくさそうに眺めていたのは、自分だ。すると不思議なことに彼女は自分に「付き合って」と言ってきたのだ。その時、色恋に興味のないフレデリックは、彼女の申し出を当然のごとく一刀両断した。

「悪いが、付き合えない」

 だが、彼女はそれから毎日のように何が嬉しくてにこにこと微笑みながらフレデリックに差し入れや弁当を手渡してくるようになった。何度、断っても彼女は止めない。周りの男達は「なぜあいつに」と囁かれる。騎士なのに女々しいったら無い。
 そんな彼女は、また自分を呼び出して「好きです」そういった。だが、やはり彼女に恋情など持ちようもなかった。しかし、こうも好いてくる人間に対してこれ以上冷たくあしらうのも心が痛んだ。だから、この時ばかりは承諾してしまった。するとどうだろう、彼女はとても、やはり嬉しそうに微笑んで腕を組んできた。それから、すぐだ。アテナが侍女として城へ招かれたのは。だから、自分は王の命よりアテナの側にずっといて、危険があれば守ってきた。そこに恋情などあるはずはない、命令なのだから。だが恋人といるよりもアテナと過ごす時間の方が楽しく、ずっと側にいたいと思ったのもアテナであった。すると、彼女は今度は沈んだ顔でフレデリックに問いかけた。

「新人のアテナっていう子とずっと一緒にいるけれど、彼女が好きなの?」

 正直、これは困った。王から、「このことは極秘に」と頼まれていたのだ。嘘をつくしかない。

「仕事で一緒にいることが多いだけだ」

 ――と。確かに、仕事で側にいるのだから仕事で間違ってはいない。だが、彼女は

「違うわ! あの子のことが好きなんでしょう? 隠さなくて良いわよ。わかってたもの、いつかふられるって…あなたは、いつも私には無関心だったし。、私といるときよりも彼女といるときの方が楽しそうだもの。別れましょう…さようなら」

 そう言われたとき、普通ならば引き留めてやるべきなのだろう。なのに、自分はただ小さな声で「ごめん」と呟いていた。彼女は涙を流しながら「そんな風に中途半端にやさしくしないで!」それだけを言い残して彼女は去ってゆく。本来ならば、悲しんだり落ち込んだりするものだとは思っている。だが、自分の心は驚くほどスッキリしていた。好きでもない人と別れて重圧から解放されたからなのか、それともこれ以上付き合っても彼女の期待に応えられないことが目に見えているからなのか。それとも、これから彼女のことなんか気にせずに任務に没頭できるからなのか。もし、最後の選択肢が正解ならば自分はどれほど冷酷で冷たい人間なのだろう。そう思うと共に別の答えが浮かんでしまう。

 ――あの子のことが好きなんでしょう?

 この時、ふとそんな声が脳裏をよぎる。そんな頭を振って振り返ると、その視線の先に前が見えないほど積まれた大量の毛布を抱えたアテナが目に入る。それを見て、思わずクスリと笑うとすかさず駆け寄って手を貸した。


 そこまで回想してフレデリックは、ふと我に返る。そして、空を見上げたやはり分厚く黒い雲が世界を覆っている。その時、始まりを告げる鐘の音が鳴り響いた。





 どれほど、長い間ここにいるのだろう。その時間の感覚すらなくなってどれくらいたったのだろうか。アテナは退屈すぎてイリスと会話していた。

「ねえ、イリス。あなたは、ずっとここに閉じこめられているの?」

「ええ、ずいぶん長い間、ここに閉じこめられているわ」

「どれぐらい?」

「さあ、分からないわ。ここって、時計も何も無いんだもの」

「そうだよね、何もないってこんなにも寂しくてつまらないとは思わなかったな」

 アテナとイリスの会話は、何度も途切れながらもそんな会話を繰り返している。アテナがそろそろ冷たい床と壁、風ばかりを通す鉄格子に飽きてきた頃。イリスは、アテナにまたしても問いかけた。

「ねえ、アテナは恋人はいるの?」

「いいえ」

「じゃあ、好きな人は?」

 アテナは、思わず目をぱちくりさせる。そして、アテナは苦笑いを浮かべる。すると、何かを感じ取ったのかイリスが「アテナ?」と問いかけた。アテナの唇が息を一度吐くと今度は言葉を吐き出した。

「これは恋情ではないのだけれど、とっても大好きな人ならいるわ。いつも一生懸命で私を守ってくれる。とっても、大切な人…」

 そうアテナが言ったときだった。地下牢の扉が開いて軽快な足音が近づいてくる。案の定、それはルディであった。

「ルディ」

 アテナが名を呼ぶとルディは、唇を動かした。最初は何を言っているのか分からなかったが、唄のようであった。それは、とてももの悲しくアテナの心に刺さる。

『あの街に行くというのかい?
 ならば 恋しいあの人に伝えておくれ 伝えておくれ
 小綺麗なシャツを作っておくれと
 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム
 くものいとで編み込んだレースのリボン
 くもを使った淡いシャツ
 くものいとで縫い合わせ
 そうしたら あの人は私の恋人』

 それは聞いたことのない言語であったが、アテナには何故かハッキリと意味が分かった。

「それは、何の唄なの?」

 アテナがルディに問いかけると困ったように頬をかく。そして、へらっとほほえんだ。ルディのこんな顔をアテナは初めて見るものだから驚いてしまう。だが、彼は本来このような表情をするのだろうなアテナは思う。

「一族から伝え聞いている唄なんだ。意味は――」

「いわなくても、分かっているわ。
  〈あの街に行くというのかい?
 ならば 恋しいあの人に伝えておくれ 伝えておくれ
 小綺麗なシャツを作っておくれと
 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム
 くものいとで編み込んだレースのリボン
 くもを使った淡いシャツ
 くものいとで縫い合わせ
 そうしたら あの人は私の恋人〉…でしょ?」

「へえ、この意味を理解できる人がオレ達以外にもいるんですね」

(オレ“達”…?)

 アテナが疑問を持った刹那、地下牢の扉が開かれた。その音に驚いてアテナとルディは、ごくりと息を飲むと――赤いたいまつを持った男。街へ来て早々、アテナの髪を切りさいた男――地主、バプティストであった。アテナはたちまち、目を見開き赤いカラーチェンジガーネットの瞳が絶望色に変わる。そのことにルディも気づいた。
 バプティストは、アテナを威圧的に見下ろして口角を上げて悪魔のように赤い舌で舌なめずりする。アテナですら足がすくんでしまいそうになる。だが、アテナはパブティストをにらみ付ける。その目は、炎のように燃えていた。

「ふん、弱い犬ほどよく吠えるものだな」

 足枷と手枷が着いている分、こちらは正直に言って劣勢だ。どう考えても、パブティストの方が優勢かつ彼の方が身分も高い。こちらはただの侍女なのだ。どうかんがえても分が悪い。だが、このまま怯むわけにはいかない。このままフレデリックの足枷であるのも嫌なのは事実だ。
 心の中では泣きそうになりながらも、それを必死にこらえ、パブティストをにらみ付ける。けれど、彼は自分が優勢であることを知っているからか余裕の笑みを浮かべている。やはり、その笑みは不気味で恐い。しかし、アテナは自分が荷物であることにもフレデリックの足枷であることも、よくわかっており、それをまた良しとはしてはいなかった。だから、彼をにらみ付ける。何も言わず、ただ無言で。
 赤いカラーチェンジガーネットの瞳は炎のように燃えていた。それは怒りからなのか憎しみなのか。アテナ自身も正体のつかめない深淵から吹き上げられる感情にただ身を任せていた。
 するとパブティストは、僅かだが後ずさる。まるでアテナに怯えるように。

「ふん、虚勢を張っても無駄だ。これから、お前の処刑が始まる。来い!」

 そう言うとパブティストは鉄格子を開けてアテナの頭を掴む。けれど、アテナは痛みで顔を歪めたのは一瞬でパブティストを睨みつける。怯んだもののパブティストは、アテナをそのまま引っ張ってゆく。やがて、大きな処刑場の上へ立たされた。

「まじない師の言うとおりだったわ! 王都からやってくる旅人がわしを滅ぼす。しかも、そいつは女で正騎士と共にやってくると」

 ぞくり、とアテナの体を何かが駆け抜ける。

(なんですって…? つまり、パブティストはそのまじない師に依存してしまっているのね。恐ろしいわ。かつて、母さんが言っていた『まじないや占いはただ娯楽のためならば面白い。けれど、その占いに依存してはならない。身を滅ぼしてしまうほど大きな何かを失ってしまう』と――。けれど、そうなってしまっては何を言っても無駄でしょうね。パブティストには“言葉”は届かない。けれど、今の私に何が出来るというの)

 アテナは色々、策を巡らせたが何も浮かぶことはなかった。その時、パブティストはアテナに問いかける。

「最期に何か言いたいことはあるか? もし、それが真実であるのならばお前を斬首刑に処してやろう。だが、もしお前の言ったことが嘘ならば…火あぶりにして少しずつ痛みを味合わせてから殺してやろう」

(そんな…、そうだ! 以前、聞いたことがある。こういうとき、あれを言えば良いんだ)

 アテナは涙目で空を見上げると口を開いた。そして、誰も思いも寄らなかった言葉を口にする。

「私は…火あぶりで殺されます」

 一瞬、時が止まったように誰もが口を噤んでアテナを見る。そして、誰かが「それじゃあ、刑は執行できないのではないか」と口にする。その言葉にみんなが口々にそう言った。すると、パブティストは歯をギリギリとかみしめて兵士達に怒鳴りつける。

「そんなバカなことがあるわけ…!」

 すると、ルディを先頭に男達がぞろぞろと現れる。そして、ルディは前に出てパブティストに言い放った。

「その者がなんと申し上げたか、おわかりですか?」

「それは、『自分は火あぶりにされる』と」 

 パブティストはルディの問いに答える。すると、ルディはうんうんと頷く。そして、パブティストの方を凛としたサファイアの瞳が射抜くように見つめる。

「つまり、彼女の言ったことが真実ならば『斬首刑』にされる。だが、それだと彼女は嘘をついたことになる。また逆に彼女の言ったことが嘘ならば『火あぶり』にされる。だが、それだと彼女は真実を言ったことになるんです。その意味、わかりますよね?」

 ルディの問いかけにパブティストは、ぐうの音もでなくなってしまう。そして、ひとしきり歯ぎしりをすると腰に下げた剣を抜いてアテナに向かって振り下ろした。

「そんなへりくつのようなマネが通用するかあああああああああああっ!!!」

 叫び声と共にアテナに向かって剣が振り下ろされてゆく。アテナは拘束されており、身動きできるはずもない。痛みを覚悟して目を閉じた――刹那。痛みではなく、やさしい温もりを持つ気配と金切り声が耳に響いた。そっと、目を開くとそこには漆黒の髪をなびかせ立っている凛とした姿勢の男――フレデリック、その人がいた。
 喜びと安堵でアテナは胸がいっぱいになる。そして、思わずアテナは妙に幼く甘えかかるような声で名を呼んだ。

「フレデリック…」

「アテナ、ご無事ですか?」

 フレデリックは、アテナの方にアルマンディンの瞳を少しばかり向ける。半分はパブティストの方を見据えていた。よく見れば、パブティストが持っていた剣は地面に突き刺さっている。
 パブティストは、数歩後ずさった。すると、そこに美しいきれいな女性が男達の間から現れた。女性は前へ出るとパブティストをにらみ付ける。パブティストは驚いたように女性を見た。

「イリス…今まで、どこに」

「そんなことより、お父様」

 女性の声は、たしかにイリスの声であった。そのことに驚いてアテナは、イリスを見る。

「バカじゃないの? まじない師とか言う意味の分からない奴の口車に乗せられて! おかげであの自称まじない師にずっと牢屋に閉じこめられていたのよ!!」

「な、なんだって…わ、わしはお前が行方不明になってどこにもいなくて…かなしくて」

「お父様、まじない師はそれを狙っていたにきまっているわ! 今、処刑すべきなのはそこの女の子じゃなくてまじない師の方じゃないの?」

 イリスの言葉にパブティストは納得する。そして、兵士に命じてまじない師を連れてこい、と命じたが「ここにいますよ」と黒に何かがうごめいた。それは、人のようであった。それは、全身が黒いマントのようなもに包まれて顔には銀の仮面を被っている。そいつが、まじない師であろう。そのまじない師はどこからともなく姿を現した。それに驚愕すると共に兵士皆が一斉にまじない師を囲い込む。
 まじない師はしかし、刃を向けられているにもかかわらず口元がニタニタと笑い気味が悪い。

「フフフ、王様。あなたは独裁者として自らの民に殺されるであろう!」

 高らかにまじない師は言う。すると、今度はイリスが口を開いた。

「それは、すべてあんたが招いたこと! あなたに刑を処すわ!!」

 だが、まじない師は黒い服の下から何か丸いものを取り出すとそれを地面へたたきつける。すると、そこから何やら白い煙が吹き出してたちまち処刑台は白い何かに覆われてしまう。少し経って煙が退くと案の定、まじない師は姿を消していたのだった。

「………」

 アテナは一気に疲れが押し寄せてきて気が緩んでしまう。そんなアテナに跪くような形で足を降ろすとフレデリックは、アテナの足枷や手枷を外す。そしてその手でアテナの頬についていた黒いすすを拭った。

「申し訳ございません。俺がついていながら、あなたを危険な目に遭わせてしまいました」

 すると、アテナは気の抜けたとても朗らかな笑みをフレデリックに向ける。その表情には、疲労と共に安堵もやはり浮かんでいる。

「いいえ、あなたがいてくれから私、助かったんだもの。あなたがいてくれて良かった…ほん、とうに…」

 最後の台詞は、途切れてしまった。アテナの意識が疲れによるものなのか、安堵によるものなのかよくわからないが、ぷっつりと途切れてしまったのだった。

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