〈幻草文庫。セレクション〉「風方剣文録」―第四章 地下牢―

2020年2月4日火曜日

過去作 長編

t f B! P L

 髪は女性の命である。この国では、そう言われるほど女性は髪をきれいに解きほぐし美しく飾る。そして、夜にはその日の汚れを水で流し、枝毛やほつれがないように薬を髪全体に付けるのだ。眠る頃には、香をたきしめて香りを髪に付ける。それほどまでも髪には気を遣う女性が多い。そんな国であるからか女性の髪を切るという行為は断罪するという行為なのである。現に女性に対する処罰の仲に“髪を切る”というのがあるのだ。しかし、どうだろう。アテナは、髪を切られても全く動じないのだ。それどころか髪を切った相手に弓を引いた。それも、髪を切られたからではなく、“大切な人であるフレデリックを傷つけた”とアテナは男にいい退けたのだ。
 この街に住んでいる人はもちろんのこと。フレデリックですら、そのことに驚くと同時に畏怖の念を抱いていた。当の本人であるアテナは、まるで当たり前の当然のような顔をしている。その上、自分よりもフレデリックの心配をしているのだ。本当にこのシュトラール王国で産まれ育ったのかと疑うほどに。

「フレデリック…?」

 アテナは、不思議そうにフレデリックを見つめた。フレデリックは、はたと我に返りショートソードをアテナの鞘に戻す。そして、立ち上がりアテナに手を差し伸べる。

「俺よりもご自分の心配をなさってください。あなたのきれいな髪が台無しになってしまいました」

 アテナはそう言われ、自分の髪をちらりと見る。けれど、すぐにフレデリックに視線を戻した。そして、フレデリックの手を取り、立ち上がる。

「これくらい、なんてことないわ。私よりもフレデリック、あなたは傷だらけじゃない。手当をしないと」

 すると、フレデリックは苦笑いを浮かべてアテナの髪を愛おしそうにすくい取る。その手つきは優しく、まるで壊れそうなガラス細工でも扱うような手つきだ。そのことにアテナは驚くと共に息を飲む。

「俺はあなたのきれいな髪があんな男に切られたことの方がよっぽど嫌です。あの美しい髪がこんな無惨な姿になるのは、たいへん心苦しいのです」

 フレデリックの言葉に嘘偽りなど欠片も感じなかった。アテナはちらりと自分の無惨にも切り裂かれた髪を見たが、それだけですぐにフレデリックの方へ向いてフレデリックに少しばかり拗ねたように言った。

「私よりもあなたの方が心配だわ」

 アテナは、そういうとカバンから手当をするための道具を取りだしてフレデリックの傷に優しく布を押し当てた。たちまち、白い布に赤いシミが広がる。するとそこへ、杖をついて歩いていた老婆が近寄ってきた。

「あなた様は、正騎士様であらせられるのですか?」

 老婆はアテナとフレデリックに問いかける。フレデリックは、凛とした表情になると頷く。

「ああ、俺は正騎士だが」

 フレデリックの言葉に老婆は、「こちらへ来てください」といって杖をつきながら歩いてゆく。アテナとフレデリックは思わず顔を見合わせて、アテナはフレデリックの腕に止血を施すと二人して歩き始めた。やがて、人気の少ない路地へと出るとボロボロで傷だらけの姿の子ども達があふれかえっていた。服は土色で裾は、ほつれ炭や泥が服や体に付いていて見るからに水簿らしい姿であった。

「これは…」

 驚きを隠せずにフレデリックは、そう呟く。すると、老婆はアテナ達の方を振り返る。

「この地の領主であるバプティスト様の目が届かぬ、ここならば安心して過ごせましょう」
 
 老婆はそう言って立ち去ろうとする。そんな老婆をアテナは呼び止める。

「待ってください。あの…ここは、どうしてこんなことに? 一体、何があったのですか?」

 すると、老婆はアテナの方を振り返る。

「へたに事を問いたださぬよう。事はあなた方が思うほど、簡単ではありますまい。明日の朝、早朝にはここを出られよ、それがあなた方のためでもある」

 そう言い残すと老婆はもうアテナの方を振り返ることなく去っていった。アテナは、思わずうつむいてしまう。フレデリックはアテナの方を見る。

「アテナ、ここは彼の者の言うことを聞いた方がよろしいでしょう。もし、へたに何か行動を起こしたりしたら、ここにいる人にも危害が及ぶかもしれません。ですから、今は何も見ていないふりをして去るのが得策かと」

 アテナは静かに瞳に怒りと悲しみを孕ませた。

「うん、わかってる。だけど、このままで良いはずがない。良いはずがないのだけれど…何よりも何も出来ない自分が嫌いだわ」

 握りしめたアテナの手は、震えていた。その手に大きな手が重なる。フレデリックが自らの手をアテナにかぶせたのであった。たちまち、驚いてアテナは顔を上げる。

「これは、我々の仕事ではございません。我々は、アトランティスの地図を作るためにここまで来たのです。それに――こんなところでこれ以上、あなたが傷つくのは見たくはございません」

 静かなフレデリックの言葉は、たしかにアテナも納得するほか無かった。けれど、やはり、アテナは気になってしまう。アテナは王都、ベッセルングを出たのがこれが初めてであった。彼女にとって世界はベッセルングであり、居場所でもあった。そのベッセルングでは、王は皆に慕われていた。しかし、どうだろう。一度、外へ出れば山賊が現れ、街へ着けば新しい王を王と認めぬ地主が自らの兵を使い新たな王に対して敵対的な態度を見せる。果たして自分の知っている世界とは、大きくかけ離れているではないか。

(私の知っている世界は、あまりに狭い。そして、私はまた無知で無力である。それに――今もこうしてフレデリックに心配ばかりかけている。彼にこれ以上、負担を増やしてはいけない。私は、彼にとってただの“お荷物”なのだから) 

 小さく息を吸い込むとアテナは、口をやっと開く。

「ええ、そうよね。私たちの使命は、アトランティスの地図を書くことだものね」

 その台詞を聞いてフレデリックは、ほっと息を吐き出す。だが、そのときアテナのガーネットの瞳には虚無感が浮かんでいた。
 その夜、アテナとフレデリックは、ぼろい部屋に案内された。あるのは、腐った木の壁と土の床。その上には藁が敷き詰められている。ここで寝ろと言うことだろう。二人は、藁の上で横たわるとすぐさま寝息を立て始めた。相当、疲れていたらしい。深い眠りに落ちるのに1秒とかからなかった。

 二人が深い眠りについてしばらく経った頃。腐った木の扉がガタガタと音を立てて開かれた。そして、三日月に照らされた黒い影がにゅと射す。その影は、アテナに近寄るとアテナを抱き上げた。しかし、アテナはぐっすり眠っていて目を覚ます気配はない。それを確認すると影の主はそのままアテナを抱き上げたまま夜の闇に消えていった。

 翌日。
 フレデリックは、何となく違和感を感じて目を覚ました。そして、隣で眠っているであろうアテナの方を見る。しかし、そこには誰もおらずもぬけの殻だった。フレデリックは慌てて剣を握りしめると腐った家から飛び出した。すると、そこには幼い少女が呆然としてフレデリックを見上げる。

「婆様に言われて朝食をお持ちしたのですが…」

 幼い少女は、そう言った。そんな少女にフレデリックはしゃがみこんで視線を合わすと問いかける。

「俺と一緒にいた女性を知らないか?」

「え、一緒では無いのですか?」

 少女はポカンとした表情でそう問いかける。それを聞いてこの少女が何も知らないことを悟る。「ありがとう」と少女に言うと、駆けだして老婆が向かった方に向かう。そこには、杖をついて歩いていた老婆がいた。その老婆にフレデリックは思わず、早口で問いかける。

「俺と一緒にいた女性を知らないか?」

 すると、老婆は青ざめた顔をする。

「もしや、いや…まさかそんなことは――」

「何か、知っているのか? なら、教えてくれ。一体、何が起こったんだ」

 老婆は、ひとしきり考えた後「こちらに来てくれ」というとフレデリックをそこそこ広い家の中へ招き入れた。広いと言ってもやはり、城にある馬小屋ぐらいの広さしか無く壁も木で出来ており、腐って落ちてしまいそうなほど老朽化している。

「ここになぜ、わしのような老人と子どもしかおらぬかわかるか?」

 老婆はフレデリックに問いかけた。アルマンディンの瞳が、僅かに細められる。固く結ばれた唇が、若干震える。

「地主がいらぬと思った人間か…?」

 思い切って開いて発された台詞。その台詞を聞いて老婆は頷いた。

「ああ、バプティスト様にとって子どもは意味もなく泣きわめく、そこらにいる犬や猫と同じ。老いた者は、意味もなく口出しするうるさいハエのようにしか思っておらぬ。そして、働いている者達は――」

 老婆は、息を飲んだ。その面持ちにフレデリックまでも息を飲む。

「家畜のようにあやつは思っておる」

 それを聞いてアルマンディンの瞳に驚きと、怒りが宿っていた。





 アテナは、かすかな痛みを感じて目を覚ます。ぼんやりとした瞳で辺りを見回していて、意識が浮上してくると手首と足首の神経が痛みを訴えているのだと知る。恐らくは、何かで拘束されているのであろう。声を出そうとするけれど、口に布を巻き付けられており、声も発せない。唯一、自由の利く目は闇を映している。目を何かにふさがれている感覚はない。どうやら、暗い部屋のようであった。

(私、誰かにさらわれたのかしら。だとしたら、また私はフレデリックに迷惑を)

 なんて、思っていると足音が聞こえてきた。その音は、部屋の中で反響している。もしかしたら、ここはどこかの地下なのかもしれない。なんて、アテナが思っているとランタンを持った男がアテナの前で足を止める。ランタンは男の顔とアテナのいる部屋を映し出す。部屋と言うべきか、アテナはどうやら牢屋に閉じこめられているようでしっかりとした鉄格子がアテナと男の間にある。
 男は、不気味なくらい笑みを浮かべている。しかし、彼はそんな笑みさえ浮かべなければ端正な顔立ちをしているだろうと思うほど、男はきれいな顔をしていた。身長は、フレデリックより10センチは低いだろうと思われる。瞳は、朝の空のようなサファイアのようなきれいな瞳だ。だが、彼の悪そうな顔がそれら全てを台無しにしてしまっている。

「あんたに恨みはないが、これも地主の命令だ。悪く思うなよ」

 アテナは、泣き出しそうな顔でうつむいた。

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