シュトラール王国の王都、ベッセルング。
街はすっかり夜の顔になり、下弦の月のみが世界を照らし出している。そこへ多くの軍を率いてカスパルは戻ってきた。カスパルは、まだ年若い騎士達を治療室へ押し込むと自分は王がいるであろう王室へ足を向ける。そして、王家の紋様が刻まれた扉をノックする。すると、中から「どうぞ」と声がした。それが聞こえてきてからカスパルは、扉を開けて「失礼します」といって中へはいる。すると、中にいた王、アドリアンは何やら書いていた紙から視線を外しカスパルに視線を移す。そして、目が疲れているのか目頭を押さえる。
「報告を」
「陛下、文に綴ったとおり無事、勝利いたしました」
カスパルは恭しくアドリアンに跪いて、そう報告する。それを聞いてアドリアンは、少しばかり安堵した表情を浮かべる。しかし、それも一瞬のこと。すぐに顔を引き締めて、王様らしい威厳を込めてカスパルを見る。
「うん、ありがとう。かなり厳しい戦況であったにもかかわらず、よく帰ってきてくれた」
「は! ところで、なぜこたびの戦でフレデリックを加えられなかったのですか。厳しいと分かっておりながら、なぜ?」
カスパルはアドリアンに質問をぶつける。その問いを戦に行く前にもカスパルは、アドリアンに問うていた。しかし、アドリアンは曖昧に誤魔化すとカスパルを戦場へと送ったのだった。そんな具合だから、カスパルは気になって仕方なかったのだ。
「カスパル、お前は本当にわたしにとって誇りのある騎士だよ」
突然のアドリアンの言葉にカスパルは、心の中で首を傾げつつも「ありがとうございます」と答える。それを聞いてアドリアンは、小さく笑う。そして、椅子から降りて立ち上がるとカスパルにそっと近寄る。その足取りは実に穏やかでダンスのステップを踏んでいるかのようであった。
「陛下…?」
カスパルは眉に僅かに眉間を寄せる。けれど、アドリアンは気にした様子もなくカスパルの目の前で足を止める。そして、跪くような仕草で片足を床に付いた。たちまち、カスパルは驚いて声を上げてしまう。
「へ、陛下!?」
「カスパル、すまない。フレデリックには、アトランティスの探索へ出かけてもらった」
アドリアンは、そういってカスパルに土下座をする。それを見てカスパルは、目を見開く。はらり、とアドリアンの黒い髪が床へ落ちた。
「どうか顔をお上げください、陛下。フレデリックは王に認められ、求められることに至高の喜びを見いだしておりました。ですから、そんな風に頭を下げないでください。自分も王に認められ、王に求められるフレデリックを誇りに思います」
アドリアンはそれを聞くと顔を上げる。だが、土下座は止めない。
「すまない、カスパル。お前はわたしにとって一番の片腕だ。なのに、お前の息子を遠くへ行かしてしまった。それに、お前にも話していない任務すらも彼は守ってくれている」
すると、カスパルは目を見開く。そして、そっとアドリアンの手をとる。その手は床に汚れが付いたのか少し黒くなっていた。
「ああ、こんなにも手を汚して。今まではアテナが朝昼晩と掃除していたからでしょうか。今日は何だか、王の部屋が汚れていらっしゃる」
今度はアドリアンが目を見開く番だった。カスパルは、そっと優しく微笑む。その微笑みが少しばかり揺らいで見えた。
「わかっておりますよ、陛下。わかっております。アテナも彼と一緒なのでしょう?」
「ああ、一緒に行かせた…」
それを聞くとカスパルは、納得がいったように微笑む。アドリアンは少しばかり顔を伏せた。けれど、カスパルはそれに気づかないふりをして上を向く。
「なら、安心です。あの暴れ馬を飼い慣らせるのはアテナだけですから。…それに守るべき人がいたほうがあいつにはいい」
アドリアンはカスパルを見る。その目は、驚くような全てを悟ったような目をしていた。
「やはり、陛下は嘘が下手ですね。わかりますよ、何年一緒にいると思っているのですか?」
それを聞いてアドリアンの疑問は確信へと変わったゆく。そして、苦笑いを浮かべた。その顔は、古くからの友に向けるような穏やかで気の抜けた表情であった。
「やっぱり、お前には敵わないな」
「敵うわけ無いだろう、陛下。言っただろう? あなたは永遠に俺には、敵わないと」
くすり、と笑ってアドリアンは微笑む。そして、立ち上がる。
「そうだな。お前は昔からそうだったな」
そう呟くとアドリアンは嬉しそうに子どものように無邪気に笑う。すると、カスパルもまた無邪気に笑う。しばしの間、シュトラール王国の王であるアドリアンは子どもの頃に戻ったかのように見えた。
*
朝であるにもかかわらず、夜のように暗い森の中。
アテナは、たきぎの音に目を覚ました。すると、火を起こして朝食であろう水とパンを食しているフレデリックがいた。アテナはしばし、ぼんやりとその様子を見ていたが、ハッとなって上半身を勢いよく起こす。そのことに驚いてフレデリックは、思わず体を震わせる。
「あ、朝…なの?」
アテナは青ざめた顔でフレデリックに問いかける。すると、徹夜していた人間とは思えないほどさわやかな笑顔をフレデリックはアテナに向ける。
「はい。朝食を召し上がりますか」
アテナはフレデリックの言葉に小さく頷くと寝袋から這い出る。そして、フレデリックからパンと水を受け取る。そして、もそもそとパンをかじっていたが、またハッとした顔になる。
「ね、ねえ…フレデリック。もしかして、寝てない?」
「はい。でも、俺は何日も寝ない日なんて多いですから気になさらないでください」
それを聞いてまたしてもアテナの顔は、青ざめる。それは尋常では無かった。
「ご、ごめんなさい! 次からは、たたき起こしてくれても良いので!」
アテナのあまりの剣幕にフレデリックは、思わず驚く。そして、苦笑いを浮かべる。困っているようである。
「大丈夫ですよ、アテナ。気になさらないでください。それに、俺の勝手であなたを起こさなかっただけですから」
フレデリックの台詞にアテナは、思わず泣き出しそうな顔をする。それを見てフレデリックは、やはり困ったように頬をかいた。
「フレデリック、そんな優しくしなくて良いから。次からは、ちゃんと私を起こしてね。じゃないと、私…申し分けなくて…」
うつむいてしまったアテナにフレデリックは、思わず驚きの表情を浮かべる。それとともに心の中である感情が芽生える。それは、王からの命令ではない心からのフレデリックの気持ち。
フレデリックは優しくアテナを抱き寄せるとそっと耳元に口を寄せる。
「アテナ…あなたは王にとってかけがえ無い存在であり、また俺もあなたを心から王と同じくらい尊敬に値する人間だと思っています。だから、あなたはもっと俺を頼ってください。俺は、あなたが望むのなら何だっていたしますから」
アテナは、たちまち目を見開く。そして、フレデリックをまじまじと見つめる。その瞳の奧には驚きと、喜びとが入り交じっている。それともう一つ――困惑が見受けられる。それをフレデリックは、感じ取りつつアテナを離すと少しばかり距離を取って座る。
「今日中には、この森を出られるでしょう。アテナ、それを食べ終わったら出発しましょうね」
「ええ」
アテナは、そう答えることしかできなかった。うつむいたアテナの瞳。今は赤いその瞳は、カラーチェンジガーネットのように色が変わる。この瞳のことをフレデリックは、知っていた。シュトラール王国の王、アドリアンがこの瞳であった。光の加減によって変わる瞳は、日の光の下だと普通のそこらにいる人と同じ、茶色い瞳だ。だから、誰も気づかない。この瞳が特殊な瞳であることに。知っているのは、おそらく王であるアドリアンとフレデリックだけであろう。アロイスが知っているかどうかは定かではない。アテナ本人も気づいているかどうかあやしいものだ。誰もアテナの瞳の特殊さに気づかないのだから、誰も指摘したりはしない。
その瞳をフレデリックは、じっと見つめる。炎を消せばこの瞳は、また違う色を見せることだろう――黒い夜空のような色に。
強い風が吹いてアテナの外套を煽る。アテナは、外套と髪を押さえつける。フレデリックの外套もまた風に煽られる。けれど、フレデリックは、心ここにあらずでアテナを見つめる。その目は、驚きとも物珍しさとも似付かない目で見る。まるで、アテナに目を奪われたかのようにアテナを見つめていた。アテナは、フレデリックの視線に気づきフレデリックを見る。その目は紅蓮の瞳ではなく、夜空を閉じこめたように美しい瞳であった。どうやら、火が消えてしまったらしい。
フレデリックは、しばらくアテナに見とれた後に風が止んだことに気づいてまた石をぶつかり合わせて火を起こした。すると、またアテナの瞳は炎のように赤くなる。それをフレデリックは、チラリと見た。すると、アテナは小首をかくんと傾げた。
「フレデリック? どうしたの」
「い、いえ…あなたの瞳があまりにきれいで――」
王様と同じ、という言葉は飲み込む。すると、アテナは思いがけない言葉だったのか目を見開く。そして、クスリと笑った。
「そんな風に言われたの、初めて。私、べつだん不思議な色はしてないよ?」
「いいえ、あなたの瞳はカラーチェンジガーネットのようです」なんて、言えるはずもなくフレデリックは、また言葉を飲み込む。そのことにアテナが気づいているかどうかは定かではない。
「いいえ、あなたはとてもきれいな瞳をしています。普段は何とも思わない瞳であるのに、時折…闘志をみなぎらせたかのように炎を宿したり、悲しげな色を映し出すこともあります」
フレデリックの言葉にアテナは、たちまち驚いてしまう。フレデリックは、アテナの燃えるような赤い瞳を見つめる。赤い瞳に見つめられれば、たちまち射抜かれてしまいそうになる。けれど、フレデリックはそれでもその瞳を逃がさないようにじっと見つめる。アテナもまたフレデリックのアルマンディンのような瞳から目が離せずにいた。すると、また風が吹く。今度の風は葉を揺らす程度の風であるが二人の空間を切り裂くには、十分な風である。二人はお互いに視線を外した。
「そろそろ、参りましょうか」
「ええ」
アテナは、そう答えて立ち上がる。フレデリックも火を消し、荷物を持って立ち上がった。そして、二人は道無き道を歩き出す。森の中は、道という道などなく草ばかりおおいしげり、木々に光が遮られ光もほとんど射さない。そんな中を二人は歩く。フレデリックはアテナが転ばないようにと手を握り、アテナのペースに合わせて歩いていた。やがて、溢れんばかりの光が二人の目に飛び込んできた。まぶしげに見上げたアテナの瞳は、黒い瞳から青空を移し込んだかのようにブルー・スピネルの色へと変わった。フレデリックは、それを見て少しばかり驚く。どうやら、アテナの瞳の色は同じ日光であっても茶色以外の色をするときもあるらしい。
そんなことをフレデリックが思っているとアテナのブルー・スピネルの瞳は、前方を移していた。フレデリックもそこへ視線を移す。すると、そこにはベッセルングに比べれば小さいが大きい街があった。それを見てアテナは、瞳を輝かせる。アテナは街の外へ出るのが初めてらしかった。それを見てフレデリックは、頬を綻ばせる。
「ここは、ベッセルングより西にあるマッセルです。ここで一夜明かしてから、ここを発ちましょう」
「ええ!」
アテナは元気よくそう答える。そして、二人は街へ降りた。すると、やはりというべきか街は活気づいていた。人々は、行き交い市にはたくさんの品が並んでいる。今日もここは、平和なようだ。――しかし、フレデリックは少しばかり街に違和感を覚えていた。
(なんだ。今でもたいへん賑わってはいるが、なんだか皆の顔が暗い気がするな。気のせいか…?)
前にもこの街へ来たことがあるからこそ、気づく違和感。そのことにフレデリックは、薄々気づいていながら、この時。彼は油断していた。なぜなら、確かに二人に向かって殺気がかった視線が向かれていたのだから。
その時。
――ヒュッ
風を切る矢の音にフレデリックは、アテナよりも先に気づいたが既に手遅れだった。その矢はアテナの髪を軽く貫いたのだ。そして、地面にピンと突き刺さる。アテナの髪は、バランスを崩してはらり、と数本髪が落ちる。そのことにアテナとフレデリックは、驚いてしまう。フレデリックは、たちまちアテナを庇うように立つ。すると、二人を囲むように兵士が立った。そのことに驚いて二人は、目を見開く。
「余所者め、はやくこの地から出て行け!」
「誰がよそ者だ。我は正騎士、フレデリックだぞ。産まれも育ちも立派なシュトラール王国だ!」
フレデリックがそう名乗ると兵士達は、たちまち殺気立つ。そのことにアテナは、思わず体を震わせる、けれど、フレデリックのアルマンディンの瞳は、前を見据えたまま射抜くように兵士達を見つめる。
「我々は、アドリアンになど忠誠を誓ってはいない! 我らが忠誠を誓っているのは――我らが王は、バルドゥル様のみである! アドリアンに仕えている正騎士など、裏切り者と同じだ!」
「なんだと――!?」
バルドゥルは、アドリアンの父であり前王のことである。未だに新王のことを認めていない人は多い。だが、それも騎士や兵士の間のみである。平民にとって王は誰であろうともかまわないのである。ただ、平和に暮らせさえすれば。けれど、兵士や騎士にとって王とは先導者である。その王が気に入らなければ、兵士や騎士はやめるかこのように街に蔓延って民へ危害を加えるのである。それも王のことが気に入らない地主が主に先導立ってするのだ。
フレデリックは、それを聞いて拳を握りしめる。 兵士達は、アテナとフレデリックに槍を差し向ける。アテナは困ったようにフレデリックの外套を握りしめる。すると、フレデリックはアテナの方を見て――息を飲んだ。彼女が驚くほどに心配そうにこちらを見ていたからだった。フレデリックは、冷静さを取り戻し兵士達を見据える。
「アテナ、お下がりください。俺が――」
そう言った刹那、フレデリックはアテナの腰にぶら下がっているシュートソードを引き抜くと槍を一気に打ち払う。兵士達は、たちまち槍を手放す。しかし、兵士達はいくらでもわいて出る。フレデリックはその度に槍を振り払うがきりがない。マンネリ化してきた動きにフレデリックは、思わぬ所から現れた剣の驚いてよろめく。それを待っていたとばかりに兵士達がフレデリックに蛾のように群がる。アテナは、それを助けようとして踏み出した足を誰かに踏まれ、思わずよろめき地面にのめり込む。
「アテナ!」
傷ついてゆく体で尚もフレデリックは、アテナの身を案じる。アテナはというとでっぷりと太った男に髪を捕まれていた。アテナの野暮ったい三つ編みの髪を男は、掴み上げていた。
「………!」
アテナは痛みと「何も出来ない」という劣等感で押しつぶされそうになった。すると、男はフレデリックの方をおかしそうに眺め――
「正騎士、お前の力でこの女を助けてみろ。今から、こいつを断罪するのだ! 皆の者、よくこの目に焼き付けよ! 我に逆らう者は、こうなる運命なのだ!」
男は叫んだ刹那に自分の剣であろうことか、アテナの三つ編みを切り裂いたのだった。フレデリックは、その光景を目にして覚醒したかのように体を起こすとショートソードで兵士達を斬り、道を切り開いた。そして、地面にぐったりと項垂れるアテナに近寄る。そのアテナを見てフレデリックは息を飲む。普通ならば、発狂したりしてもおかしくはない現状だ。なのに、アテナは凛とした瞳でじっと何かを考えている瞳をしていた。そして、ゆっくりと立ち上がる。そのブルー・スピネルの瞳は、男を確かに捉えていた。
「私の髪ごときで良ければいくらでもくれてやる。…けれど、フレデリックに手を出したことは許さない!」
そう静かに怒りを孕んだ声でアテナは、言った。そして、驚くほどゆっくりと背中にある弓を手に取る。そして、息をするように自然に弓を構えて弓を引いたのだ。その仕草一つ一つに誰もが目を奪われ、息を飲んだのをフレデリックは感じる。矢はアテナの手を離れ、空を切り男の脇腹をすり抜けた。
男は、恐怖に満ちた顔でアテナを見る。しかし、アテナは決して動じてなどはいなかった。それどころか、まるで息をすることと同じようにまるであたりまえの当然のように男をにらみ付けることもなく眺めていた。それは――ゾッとするほどに。
男は、アテナの茶色い髪を空に放つと兵士を引き連れて大きな屋敷の中へと入った。それを確認してから、アテナはフレデリックと顔をつきあわす。
「フレデリック、ケガ大丈夫?」
先ほどまでの冷たい目はどこへやら。アテナはとても自然にフレデリックに声をかけていた。まるで、別人ではないかと錯覚してしまうほどに声色からして違うのだ。そのことにフレデリックは、少しばかり恐怖してしまう。けれど、この恐怖をフレデリックは知っているのだ。そう、これも王であるアドリアンも一緒。いつもはどこか抜けているのにもかかわらず、自分の大切な者を傷つけたときに見せる顔。それは、とても恐いが大切な人大事に思う気持ちはきっと誰よりも強いのだとフレデリックは考えていた。
「大丈夫ですよ、これくらい。かすり傷です」
フレデリックは、そう答えるのが精一杯だった。