〈幻草文庫。セレクション〉「風方剣文録」―第二章 黒い森―

2020年2月4日火曜日

過去作 長編

t f B! P L

 冷たい風に煽られながら、アテナは外套を羽織り直す。
 ここは、シュトラール王国の西部にある森で王都、ベッセルングを出て間もなくいったところにある森である。そこは、黒い木々が妖しく風に揺れては治まり、また妖しく風に揺れる。それをアテナは流れる景色の中でじっと眺めていた。また下弦の月も妖しく輝きアテナ達を見下ろして嗤っているかのように感じる。妖しい光を受けてアテナは、思わず息を吐き出した。たちまち、息が凍るかのように白く濁る。その息を感じてフレデリックは、走る愛馬――リヒトの速度を遅める。

「大丈夫ですか、アテナ」

 背中にしがみついているアテナを気遣ってフレデリックは、そう声をかける。アテナは思わず「ええ」と答えてまた、外套を羽織りなおした。だが、外套はどこも捲れあがってはいないし着崩れてもいない。そのことにフレデリックは、気づく。

「もしや、何か気になることでもあるのですか?」

 フレデリックは、問いかける。すると、アテナは驚いたように目を見開いた。そして、少しばかり言いにくそうに口を開く。その頬は、少しばかり赤い。

「その、今夜は少しばかり寒いなと思いまして。つい、外套を何度も羽織直してしまって」

 アテナの答えに納得がいかないのかフレデリックは、眉根を寄せる。そして、少しばかり強い口調で問いかける。その声は、少しばかり低い。

「アテナ、遠慮しなくていいんです。何でも、仰ってください。何か気になることでもございますか」

 すると、アテナは思わずうつむいてしまう。フレデリックは思わず息を飲んでリヒトの足も止まってしまう。そのことに驚いてアテナは、顔を上げる。そして、フレデリックのアルマンディンのような瞳と視線が絡み合う。思わずアテナは、見とれるようにフレデリックの宝石のような瞳を見つめる。たちまち、その瞳の中に引き込まれそうになって息を飲んだ。

「実は――」

 アテナが口を開いた刹那。黒い影が草むらから幾つも現れた。フレデリックは、視線をアテナからその黒い影へとシフトする。フレデリックのアルマンディンのようなきれいな瞳が射抜くように影を見つめる。すると、黒い影は奇声のような声を上げてアテナ達へ向かって走ってくる。その手には、月光を浴びてキラリと光る短剣が握られている。フレデリックは、リヒトの方向変換をして黒い草むらの中へとつっこむ。ただでさえ暗い森であり、日の光さえ少ししか射さない森であるのに、こんな真夜中にしかも下弦の月のみが輝く夜である。光なんて無いに等しい。そんな中を突っ切る。周りは、闇ばかりで馬の草を踏む音しか聞こえない。そんな中、アテナはぎゅと目を閉じていた。フレデリックは、目を開けじっと前方を見据えている。やがて、光の射す野原に出た。アテナは、ゆっくりと目を開き、その光景を目にする。たちまち、リヒトは足を止める。

「まあ、きれい…」

 アテナは思わずそう声を発していた。それもそのはず、アテナの目に映っているのは色とりどりの草花が咲き誇る野原。その野原は、つゆを孕んでおり花びらに雫が入っている。その雫が下弦の月の光を浴びて宝石のように煌めいている。そして、その花に引き寄せられるように光を放つ何かが彷徨っていた。

「この森にこのような場所があったのね」

 感嘆の息を漏らすアテナにフレデリックは、ほほえみかける。その表情は軟らかい。しかし、アテナはそれには気づかずに景色に見とれている。それでも、フレデリックはアテナのそんな表情が嬉しいのか景色ではなくアテナをじっと見つめている。

「ええ、俺が初陣の時に偶然、迷い込んだときに見つけました。いつか、あなたと来たいと思っていたのですが、このような形で来ることになるとは思わなかった」

 フレデリックの言葉にアテナは、ハッとなる。そして、フレデリックの方を向いて思わず手に力を込めた。

「そういえば、さっきの人たちは? 一体、何者なの」

 アテナが思い出したようにそうフレデリックに問う。すると、フレデリックは顔を曇らせる。その顔を見てアテナは息を飲む。きれいなアルマンディンの瞳に影が射したからだ。黒いきれいな瞳ではあるが、その黒は闇ではない美しい夜空のような色であった。しかし、今はその瞳に闇と呼ばれる黒が差している。

「おそらく、山賊です。彼らは元々、我が国の騎士でしたが前王が亡くなり、新たな王が即位するとき王のいった言葉に反発し騎士を止めたならず者達です」

「言った言葉って…?」

 アテナは、おそるおそる訊く。フレデリックもやはり言いづらいのか言いよどむ。けれど、意を決して口を開いた。

「『我が国は十分、戦ったはずだ。もう我が国から争いを吹き掛けるのは止めよう。これからは、自衛に重点を置くのだ』と」

 フレデリックの言葉にアテナは、黙り込む。そのことにより、少しばかり沈黙が降りる。静寂と月の光だけが辺りに満ちている。やがてアテナは、口を開く。

「それのどこがいけないの? 一体、何がいけないというの…」

 顔を伏せてアテナは、問いかけると言うより独り言のように呟く。その声を聞いてフレデリックは、困ったような表情を浮かべる。そして、視線を前方へと移す。しかし、美しい月の光も草花のつゆも眼中には無かった。アルマンディンの瞳には、確かにその美しい風景が映り込んでいるにもかかわらずフレデリックの頭の中は、アテナのことでいっぱいだった。

「アテナ、シュトラール王国は陛下が即位する前は王は戦争がお好きだったそうです。なので、自ら戦争を起こし領土を広げていたそうです。進軍してきたら、すぐに迎え撃つし、その準備も常々、怠ってはいなかったそうです。そんな王の息子である陛下は、大人しい子で民からは駄目な子だと思われていたそうです。
 けれど、そんな王も病に倒れ今の陛下が即位された。…急に自衛に重点を置けと言われても皆、ピンとこないのです。だから、それでもなお陛下の元に残ったのは、王の息子だからじゃなく一人の人間として信頼している者だけが陛下の元にいる。それは、良いことだと俺は思います。ただ王族の血筋だと言うだけで仕えるのではなくその人自身を見ていると思いますから」

 そう言ってフレデリックは、アテナの方を振り向く。その表情はアテナが見たことがないくらい軟らかい。それを見てアテナもたちまち、頬を緩ます。

「そういえば、アテナ。何か言おうとなさっていましたよね? 何かご用だったのではないですか」

「あ、そうです。実は、お腹が空いて…」

 へらっと笑ってアテナは、恥ずかしそうに頬を染める。それを見てフレデリックは、ほほえましそうに微笑んだ。

「では、ここで食べましょう。今日は、こんなにもきれいな月夜です。こんな夜にこんなきれいな場所で何もせずに見ているだけだなんてもったいないですからね」

 アテナは思いっきり喜んで「はい!」と答えた。すると、フレデリックはリヒトから降りる。そして、アテナに手を差し伸べる。その手をアテナが取るとフレデリックは、アテナを馬から下ろす。そして、カバンをあさると少しのパンと少しのチーズを取り出してアテナに渡した。

「俺は、お腹空いてないから」

 そう言ってフレデリックは水だけを取りだして地面にそのまま座る。アテナもそれに習って地面に腰を下ろす。そして、パンの上にチーズを乗せて口へ運ぶ。たちまち、チーズの香りと味が口の中に広がる。それを満足そうにアテナは味わう。それを横目で見てフレデリックは水を少し飲む。アテナがパンを食べ終えるのを確認すると、水を渡す。

「水は飲んでおいた方が良いですから」

 それを受け取ってアテナは、水を少しだけ飲む。それを確認するとフレデリックは、風景を眺める。淡い光の欠片がフレデリックの足の上に止まる。そして、消え去った。それを見てアテナは不思議そうに小首を傾げる。

「…消えた?」

 フレデリックは、ふっと息を漏らしてアテナを見る。そして、口を開いた。

「この光がなんなのか分かりませんが、前にアロイスと来たとき、アロイスには見えていないことがわかりました」

「え?」

 アテナは驚いて目を見開く。フレデリックは、下弦の月を見上げる。

「どうやら、この光は見える人と見えない人がいるようです」

「そ、そうなんだ…。見えないなんてもったいないなあ…こんなに美しいのに」

 感嘆にも似たアテナの呟きにフレデリックは、嬉しそうに目を細める。その小さな動きさえもアテナは、見逃さない。そして、フレデリックに顔をずいと近づける。

「フレデリック、今すごく嬉しそう…」

 アテナの言葉に驚いてフレデリックは、立ち上がる。そして、誤魔化すようにこういった。

「そろそろ、行きましょう。明日には、シュトラール王国を出たいですから」

「ええ、そうね」

 アテナは特に反論することもなく、そう頷く。それを確認してからフレデリックはアテナから水をもらうとカバンの中にしまい込む。そして、アテナを先にリヒトに乗せてから自分が乗る。そして、またリヒトは動き出す。最初は比較的、ゆっくりとしたペースであったが徐々に足が速くなり、アテナはフレデリックにしがみついているのがやっとだった。けれど、アテナは流れゆく景色を眺める。すると、やはりそこには黒い木々が風に揺られているだけであった。しかし、ヒュ――と風を切る何かの音がアテナの耳に届いた。と思ったら、矢がリヒトに突き刺さっていた。すると、リヒトが暴れてフレデリックとアテナは空に放り出される。フレデリックは、とっさにアテナを抱き寄せてかばう。たちまち、地面へ打ち付けられてフレデリックの腕に痛みが走る。

「――ぐ!」

 リヒトは、一啼きすると黒い森の中へと消えた。フレデリックの腕の中にいたアテナは、フレデリックの腕から這い出るとフレデリックに声をかける。

「フレデリック、大丈夫?」

 すると、アテナとフレデリックの前に見知らぬ男が立ちはだかる。その男は、ボロボロの服に傷だらけの体で立っていた。フレデリックは、痛みをこらえながら体を起こすとアテナを背にかばう。男は剣を構える。その剣は、月光を浴びてキラリと光る。それを見てフレデリックはアテナの腰に刺さっているショートソードを引き抜く。次の瞬間、男はフレデリックに向けて剣を振り下ろしてきた。それをフレデリックはショートソードで防ぐ。たちまち、静寂に満ちていた黒い森に金属音が響く。甲高いその音は、ざわざわとざわめく黒い木々の音をかき消して響いてゆく。
 男とフレデリックの剣を交える音が、ただただ響く。アテナは、はらはらとその音を聞いていたが、ふと黒い木々に混じって弓を引く男の姿を見つける。恐らくはリヒトを射った男であろう。その男は、アテナの姿には気づいていないのか、矢の切っ先はフレデリックに向かっている。

(今なら…!)

 アテナはそう思い立ち、弓を構える。そして、息を吸うように弓弦を引き、息を吐くように矢を放った。その矢は寸分の違いなく、男の弓を射る手へと当たる。男は、手を押さえながら、その場を去ってゆく。それを見てフレデリックと剣を交えていた男も息を飲んで一度、強く剣でフレデリックを押すとフレデリックがよろめいた隙に去っていった。フレデリックは深追いせずにアテナに近寄る。

「助かりました…」

「フレデリックこそ、ありがとう。ところで、腕いたむ?」

 アテナはそういってフレデリックの腕を取る。刹那にフレデリックは、顔を歪める。

「救急箱、リヒトに乗せたままだった。どうしよう…このままじゃ…」

 思わず涙目になりそうなアテナの髪をフレデリックは、撫でる。アテナは、フレデリックの顔を見上げる。

「とりあえず、リヒトが向かった方へ行ってみましょう」

 アテナは、ただ頷く。そして、フレデリックと共に歩き出す。しかし、行けども行けどもただ闇だけが広がる森の中。おもわず、アテナは身震いする。それに気づいたフレデリックはアテナの手を取る。

「これなら、恐くは無いでしょう?」

 アテナは嬉しそうに微笑んで頷く。その後も、足を止めることなく歩く。けれど、やはりリヒトはおらず草花が多い茂っているのみだった。二人して心が折れそうになった頃、草花の上にリヒトにのせてあった荷物が散乱していた。ふたりは思わず、顔を見合わせると荷物の中身を確認する。すると、ランプやアドリアンからもらった旅の資金。地図を書くための紙とペン、寝袋もきちんとあった。しかし、食料は半分しか入っていないカバンしか無く、もう一つのカバンの方はいくら探してもなかった。二人は、その食料を大切に食べることにして旅は、歩いていくこととなった。

「仕方ないですからね…アテナ、ここで眠ってください。明日もまた歩きますから」

「え、でもフレデリックは? こんな森の中じゃあ、何かに襲われるかもしれないから野宿してはいけないと陛下が仰っていたわ」

 アテナの問いかけにフレデリックは、笑みを浮かべてみせる。

「俺が見張っていますから、アテナは寝てください。1日くらい眠らなくても俺は、大丈夫です」

「なら、交代で寝ましょう。ある程度寝たら、私を起こして」

 少し考えた後にフレデリックは、笑みを浮かべる。そして、「はい」と答えた。それを確認してからアテナは寝袋に入った。思いの外、疲れていたのかアテナはぐっすりと眠ってしまった。その寝息を聞きつつフレデリックは、空を見上げる。下弦の月は、妖しく夜空で輝いていた。

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